「ハート」か「桃」か?それとも……?

  現在の向野堅一記念館、旧讃井病院は、大正11年(1922)竣工といわれており、あと少しで100周年となる。それ以前の地図にも出ており、何年ぐらいかかって造られたものかはっきりしない。また残存しているのは原形の3分の1程度である。残念ながら、建築のことは素人で、よくわからない。実は、玄関の上にある「ハート」の形が何を意味するのかもよくわからない。一説には「ハート」といい、一説には「桃」というようである。どなたかご存じの方お教え願えるとありがたいです。また類似のものなどあればお教え下さい。(2020.5.5 向野正弘)

 

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向野堅一記念館正面玄関上段

 

西村金瓶子『句集 初明り』における子ども達の回想する直方

 句集を整理していると、一冊の句集が目にとまった。西村金瓶子(きんぺいし)『句集 初明り』(東京都千代田区、白凰社、1986.3)である。句集の他、上林昭夫「西村金瓶子氏を偲ぶ」「随筆」「思い出」「著者略歴」西村三穂子「あとがき」よりなる。
 拝見して、少し感じるところがあった。概要を記すと、西村金瓶子(金平、1892.10-1984.4)氏は、安田銀行から十七銀行に移籍。昭和6年(1931)10月~昭和9年(1934)7月まで直方支店長。その後安田銀行へ復帰、東京へ帰る。向野堅一は、昭和6年(1931)9月17日に没し、翌9月18日に満州事変が勃発する。安田は、満州においても種々画策していたことを考えると「何かありそうだ」ということである。残念ながら、この線はここまで。後の課題としておき、ここでは、子供達の回想する直方を紹介しよう。
   ◇  ◇  ◇
 まず長女の西村三穂子「あとがき」は次のように述べる。

…(略)…昭和二年、三宅清三郎氏等と共に九州福岡の安田銀行の関係銀行であった十七銀行(現福岡銀行)へ移籍となりました。当時福岡には河野静雲、清原拐堂等ホトトギスの同人が居られ、銀行も本支店共に俳句会が盛んでございました。又近くには久保より江、竹下しづの女、杉田久女等のホトトギス女流俳人が居られ、時にご一緒に句会を催す事もありました。/福岡―唐津―直方と転任しました。当時炭鉱の黄金時代は過ぎておりましたが、直方は炭鉱都市として栄えた商業地であり、銀行業務も多忙でありながら、傍ら若い方々と熱心に句作を楽しんだ頃でした。遠賀川の流れ、福知山の眺めは四季を通じ句作のよい材料であった様です。(pp.178-179)

 ここで当時の直方を「炭鉱の黄金時代は過ぎておりました」としつつ「炭鉱都市として栄えた商業地」と位置付けている。したがって銀行業は多忙であったとしている。俳句については、まず十七銀行(現福岡銀行)において、盛んに俳句会が行われていたことは注目すべきであろう。そして当時の直方において「若い方々と熱心に句作を楽しんだ」としている。こうした俳句を通したコミュニケーションが円滑な人間関係の基礎にあることを注目すべきと思う。なお俳人中に見える河野静雲氏は、直方の俳壇でも重要な位置を占めている方である。
   ◇  ◇  ◇
 ついで弟の西村純「父の思い出」は、次のように述べる。

やがて父の転勤で私達は福岡県の直方市に移る。私はここで小学校一年に入学している。この時代の父は子供心にもさっそうとしていた。急ぎの用があると直方市に二、三台しかないタクシーに乗ってかけつけてくる。宿題の出来が悪いと云っては時々叱る父でもあった。おそらく父の一生で一番充実していた時期であったと思われる。家の裏側の広場の向こうに遠賀川の鉄橋があり、汽車が黒煙をはいてゴトゴトと渡って行く音が聞こえた。広場には大人が入れるような大きな酒樽がいくつも干してあって、夏の夜この樽の底をポンポンとたたく音がものうげに聞こえてきたりした。/昭和九年になると、父は安田銀行の本店に呼びもどされた。直方市の駅には見送りの人が一杯であった。数名の方は下関迄わかれを惜しんでついてきて下さった。この中の何人かの方とは、父は亡くなるまで文通をかわして昔をなつかしんでいた。(pp.169-170)

 前掲の姉の視点より幼い、小学校低学年の視線から見ての父と直方。このころから、人力車からしだいにタクシーへと移っていくのであろう。また家の場所もある程度特定できそうな描写や当時の情景も具体的である。本店への転勤の際の見送りは、俳句などを通した人間的な交流の帰結であったとみることができよう。
   ◇  ◇  ◇
 西村金瓶子の句中「桜餅 昭和七年」31句は、直方時代のもので、今日失われた時代を反映した描写もあり、興味深く感じる。残念ながら力不足であり、検討を加えていつの日にか紹介できればと考える。
                                                                                                      (2020.5.21 向野正弘)

菜殻火(ながらび)系俳誌『光陰』について

  本年(2020)は直方市出身の俳人野見山朱鳥(のみやま あすか、1917-1970)没後50年とのこと。向野堅一記念館の前の道を挟んで向かい側、少し歩いた先にある直方谷尾美術館では、「太田穂摂書作展―俳人野見山朱鳥を書く―(箱根湯本ホテルコレクションより)5.19-6.28」を予定していたが折悪しくコロナ騒動で中止とのこと、残念に思いながら、蔵書を整理していたところ、菜殻火(ながらび)系俳誌『光陰』16冊を確認した。
 該誌は昭和27年[1952]1月20日に創刊。所蔵する最後の16号は、昭和18年[1953]9月15日刊行であり、わずか二ヶ年内外の活動期間の雑誌であったと思われる。そして、直方・筑豊の俳壇史を考える上で、貴重な史料と思われる。しかし筆者のささやかな調査では、福岡県内の公共図書館に架蔵されていないようである。そこで、基本的な目次を整理し、その上で、基本的な経緯と特徴を整理することとしている。
 併せて、一定数の句集などを所蔵しており、この際整理を行うことにした。直方・筑豊に展開した俳壇の活況にせまることができればと考えている。
                                                                                             (2020.5.21  向野正弘)

『福銀漢詩集』について

蔵書を整理していたところ、

    福岡銀行業務部編『福銀漢詩集』(福岡銀行業務部、昭和48年〔1973〕9月       12日発行、非売品)※文庫本よりやや大きめ。82+7p。目加田誠「序にかえて」遠城寺宗徳「明日への糧」福岡銀行業務部「あとがき」索引

という、薄冊の漢詩集がでてきた。簡単に紹介しておきたい。

〔解説〕本書の元は、福岡銀行によって『西日本新聞』の「題字下」広告として、昭和41年(1966)9月~昭和46年(1971)5月まで、毎月2・3回日曜朝刊に掲載されたもの。選者は、目加田誠氏である。限られたコラム欄という制約の中で、漢詩より1・2句を選んでいるところに妙味があるように見受ける。
 唐詩から92首、宋元明清詩から33首、漢魏六朝詩から5首、日本漢詩から26首、その他「現代人」「不明」などから4首、計160首を採録している。
 こうした漢詩広告に、意義を見出した当時の福岡銀行西日本新聞社の見識の高さだけでなく、そうしたものを育て育んできた福岡の文化的風土の一端に触れたような気がした。
                                                                                           (2020.5.20 向野正弘)

 

新型コロナ感染症対策「緊急事態宣言」解除を受けて(開館について)

福岡県も「緊急事態宣言」解除とのこと。状況に大きな変動がなければ、6月6日(土曜日)より、記念館開館いたします。

 

 

なお、これまで通り、土曜日に開館致します。

新型コロナ感染症対策「緊急事態宣言」への対応(第2次)

4月13日、記念館の所在地である福岡県直方市においても、新型コロナ罹患者が確認されました。この状況を受けて、記念館の開館について、以下のようにいたします。

対 応: 当分の間、休館と致します。
※一応、ゴールデンウィークまでを目途とし、その段階で、状況を見て、その後の対応を判断いたします。

新型コロナ感染症対策「緊急事態宣言」への対応(第1次)

4月6日、福岡県を含む7都府県に緊急事態宣言が発令されました。記念館の開館について、以下のようにいたします。

 

  • 現 状: 毎週土曜日開館しています。
  • 対 応: 当分の間、現状通り毎週土曜日開館します。

ただし、行政サイドから個別に閉館の依頼を受けた場合には、閉館とさせて頂きます。その際には当ブログでお伝えいたします。

  • 注意点:「緊急事態宣言」の主旨に鑑み、団体での来館はご遠慮ください。