向野正弘「讃井源次郎の来直―讃井病院開業の意義―」

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郷土直方46号表紙

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「讃井源次郎の来直」1頁目



(『郷土直方』(直方郷土研究会)第46号 2-6頁、2021.6)現在向野堅一記念館となっている讃井病院を造った讃井源次郎の来直ならびに大病院建築に向かった意義について検討を加えた。彼の足跡を踏まえ、伝染病と新しい医療分野としての小児科の意義を踏まえ、意義を論じた。

『廣瀬淡窓・咸宜園に学ぶ―咸宜園教育顕彰事業優秀賞受賞記念誌―』(淡窓研究会編刊)


廣瀬淡窓・咸宜園に学ぶ
―咸宜園教育顕彰事業優秀賞受賞記念誌―

   廣瀬 和貞:序文

  〔研究の部〕
Ⅰ.廣瀬淡窓と咸宜園ネットワーク
〔1〕深町浩一郎:廣瀬淡窓の自省のことば―「宥座語」について―       1
〔2〕矢嶋 道文:『廣瀬淡窓日記』にみる病と薬-文政六年(1823)「遠思楼日記」より- 13

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表紙

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裏表紙



3〕西江錦史郎:廣瀬淡窓門下の尊王・攘夷・倒幕論の系譜 25
〔4〕三溝 博之:廣瀬淡窓と佐賀の文人・思想家 41
〔5〕三澤 勝己:廣瀬旭荘と菊池渓琴の交遊 53
Ⅱ.咸宜園と咸宜園を取り巻く教育・文化活動
〔6〕松野 敏之:鳳鳴書院と楠本端山・碩水 69
〔7〕村山 敬三:藍澤南城「?蝨問答」考 79
〔8〕向野 康江:長三洲と協力した「学制」起草者の模索の一端―瓜生寅の訳述書『啓蒙智慧之環』の形象把握論を手掛かりに―        93
〔9〕向野 正弘:咸宜園門生の著した「千字文」型教材―永田道鱗(?船)著『自註詳解 日本千字文』の紹介と考察― 105
Ⅲ.幕末・明治維新を生きる咸宜園門下生
〔10〕中島 久夫:三洲と松菊―長三洲著「内閣顧問木戸公行述」に寄せて― 115
〔11〕中島 久夫:校訂「木戸松菊公傳」―長三洲著「内閣顧問木戸公行述」翻刻― 125
〔12〕川邉 雄大:加藤虎之亮撰「清浦奎吾ニ賜フ誄」(草稿三種)について 151
Ⅳ.淡窓・咸宜園への思慕と現代的顕彰活動
〔13〕穴井 誠二:「小倉日記」に見る、廣瀬淡窓への森鴎外の思慕―附「現代語訳・小倉日記」(日田・廣瀬家訪問記録抜粋)― 159
〔14〕合山林太郎:廣瀬淡窓の詩と漢詩詞華集及び漢文教科書―「桂林荘雑詠、示諸生」「筑前城下作」はいかにして名詩となったか― 177
〔15〕吉田 博嗣:廣瀬淡窓・咸宜園の顕彰活動のあゆみ―日田市の取組みを中心に―                            193

  〔思いの部〕 211
〔1〕中島 龍磨:体験(見て・感じた)した災害を、後世に生かす事こそ私たちの使命
〔2〕鶴田 秀典:廣瀬淡窓と長福寺
〔3〕清浦 奎明:「立志の道を歩こう」事業―今も生きる学びの場、咸宜園―
〔4〕三澤 勝己:田中加代先生の思い出
〔5〕川邉 雄大:淡窓研究会と私
〔6〕松川 秀人:淡窓研究会と私
〔7〕向野 正弘:「学びの主体者を育成する学びの共同体」への確信―相澤節『校長の散歩道』に見える「休道の詩」の意義―

   編集後記   227

『威風凜々 烈士鐘崎三郎』の刊行(1)

鐘崎三郎顕彰会〔編集委員会〕編『威風凜々 烈士鐘崎三郎』(花乱社、令和3年5

月刊、44+268頁、定価(税込み)3300円)

 

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表紙

 

 鐘崎三郎(明治2年~27年、1869-1894)。普通には、遼東半島において刑死した日清戦争の悲劇の「英雄」。通訳官・軍事探偵「三崎」の一人として知られ、芝居、講談、紙芝居、小説等の主人公としても取り上げられ、知らぬ者なき「英雄」であった。
しかし、戦後永らく語られることはなかった。発端は、昭和45年(1970)の鐘崎三郎の銅像の再建・除幕式であった。母は、除幕式を行った高校生の娘に対して、三郎の名を「他言しないように」(47頁)と念を押した。半世紀をへて、娘は、母の思いを受けて、鐘崎三郎の全容の解明に乗り出した。
 三郎だけでなく、併せて父寛吾の足跡も追跡し、一つのファミリーヒストリーとして興味深い内容となっている。また三郎の中国での足跡を追って、日清貿易研究所や日清戦争の研究においても有意義な書となったと思う。さらに納戸鹿之助『烈士 鐘崎三郎』所収の諸史料を取り込み、増補しているので、史料集としても有意義である。

三菱新入炭坑の残影 ―高倉山高蔵寺の地蔵菩薩像―

  〔1〕
 向野堅一の一族の住む現在の直方(のおがた)市上新入(かみしんにゅう)は、明治の早い段階から炭坑として着目され、利権をめぐって、争われた地域である。近代化が最も早く押し寄せた地域と言って良いのではないだろうか。向野堅一は、そうした社会の激変と矛盾とを間近に見ながら成長した。最終的に新入炭坑を手中に収めたのは三菱で、炭坑は拡大を続けていく。そのことは一面で、この地域に繁栄をもたらし、一面で激しい変化と社会矛盾とをもたらした。
 そうした近代の一面が向野堅一にどのような影響を与えたのか。実は、三菱新入炭坑と向野との関わりを知りたいと思い、三菱新入炭坑の足跡を上新入に尋ねた。しかしほとんどわからなかった。素人同然で、みるべきポイントを外しているというだけでなく、三菱は可能な限り足跡を消し去って立ち去ったようである。


  〔2〕
 高倉山高蔵寺は、直方(のおがた)市上新入(かみしんにゅう)の外れ、鴨生田池(かもうだいけ)の池畔を見下ろす高台にある。筑前国三十三観音霊場第24番札所で、馬頭観音を祀(まつ)る真言宗の古刹である。今日では無住となり、御堂と雑然とした廃墟や石仏が残っている。
 この寺は、向野堅一の生家とも姻戚関係にあり、向野堅一を取り巻く故郷の状況を考える上で示唆に富む点がある。ただそのことは、きちんと整理して論じなければならないと考えている。またこの寺の廃墟となっている遺構もきちんと整理するべきものと考えているが、すぐにできることでもない。しかし興味深い遺構が多い。


  〔3〕
 ここでは、境内にある地蔵菩薩像を紹介したい。〔写真①〕一見しっかりしたものに見えるが、砂岩系の柔らかい石で、特に基壇はかなり傷んでいる。何時倒れてもおかしくないとみる。〔写真②〕裏に回ると「新入村三菱炭坑」とあり、「発起人」の名が刻まれているが、残念ながら剥離していて、人名は、はっきりしない。〔写真③〕側面には「二十四世」とあり、当寺の二十四世住職〔おそらく、観了師:堅一の姉の夫〕を指すであろう。残念ながら、どのような理由で建立されたものであるかは、いまのところ不明である。ただ、漸くにして三菱新入炭坑の残影にたどり着いたことを報告しておきたい。(2021.2.24.向野正弘)

 

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〔写真①〕

 

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〔写真②〕



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〔写真③〕

 

 




 

 

 XX

〔紹介〕「向野文庫架蔵『四書正解 論語』箋註影印」について

「向野文庫架蔵『四書正解 論語』箋註影印」(向野正弘編)『向野堅一記念館研究紀要』第五号(PDF版、2020.9.575p)

 

 

   〔1〕
 この箋註は、向野文庫架蔵『四書正解』(元禄丁丑[十年(一六九七)]、平安城書林天王寺屋一郎兵衛好廷蔵梓)の「論語」中に挟み込まれており、279枚の紙片よりなる。箋註のみの影印では、意味を読み取ることができないので、併せて本書の該当部分を影印した。
   〔2〕
 明治27年(1884)10月28日、日清戦争の渦中、遼東半島において、軍事探偵として放たれた向野堅一は、大雨の中で極まる。その苦境を助けてくれたのが姜家の人々であった。『向野堅一従軍日記』は、

 

同家ノ老父ハ、此村落ノ義塾師ニシテ少シク学識アル者ナリ。論語巻ノ二ヲ出シ余ニ示ス。問フテ曰ク、君ハ之レヲ修メタルヤ否ヤ。答エテ曰ク、修メタリト。於是筆ヲ以テ彼ノ姓名ヲ問フ。姜士采ト云フ、…(略)…

 

と記す。義塾師姜士采は、向野堅一を怪しんだと思う。そこで『論語』巻ノ二を出して探りを入れる。向野堅一は、自信を持って「修メタリ」と(中国語で)答えている。待ってました、と言わんばかりである。「巻ノ二」は「八佾」「里仁」、姜士采は、これをつかって、どのように試したのだろうか。また堅一はどのように応答したのだろうか。そこのところはわからない。ただ議論は白熱し、論語から『詩経』等へも及んだらしい。側でその議論の様子を感銘深くうかがっていたのが孫の姜恒甲であり、後に「養子」として、日本へと渡ることとなる。姜士采も十分に満足し、向野堅一に孫を託すこととしたのである。
   〔3〕
 さて、向野堅一の『論語』の学びはどのようなものであったろうか。新入[しんにゅう](現直方[のおがた]市)の秦塾(明善義塾)において秦巌から学んだものであることは明らかである。それでは、秦塾・秦巌の『論語』理解はどのようなものであったろうか。ここに紹介する「向野文庫架蔵『四書正解 論語』箋註」こそが、秦塾・秦巌の『論語』理解の一端を示すものと推測するのである。
 秦巌は小倉藩に連なる人物で、幕末の騒乱の中、小倉藩藩校の蔵書の一部を大八車に積んで避難したとされている。この蔵書を核として、秦家・青柳家・向野家などの蔵書を併せて、現在に至っているものが向野文庫なのである。
   〔4〕
 残念ながら、今は、この箋註の作者を秦巌と確定する段階には無い。筆跡など、多角的な検討を要すと考えている。また私は、経書に通じていない。したがって内容面から詰めていくことも難しい。ともかく何らかの形で、存在を明確にしておこうとしたのがこの影印である。
                            (2020.12.14.向野正弘)