〔紹介〕「向野文庫架蔵『四書正解 論語』箋註影印」について

「向野文庫架蔵『四書正解 論語』箋註影印」(向野正弘編)『向野堅一記念館研究紀要』第五号(PDF版、2020.9.575p)

 

 

   〔1〕
 この箋註は、向野文庫架蔵『四書正解』(元禄丁丑[十年(一六九七)]、平安城書林天王寺屋一郎兵衛好廷蔵梓)の「論語」中に挟み込まれており、279枚の紙片よりなる。箋註のみの影印では、意味を読み取ることができないので、併せて本書の該当部分を影印した。
   〔2〕
 明治27年(1884)10月28日、日清戦争の渦中、遼東半島において、軍事探偵として放たれた向野堅一は、大雨の中で極まる。その苦境を助けてくれたのが姜家の人々であった。『向野堅一従軍日記』は、

 

同家ノ老父ハ、此村落ノ義塾師ニシテ少シク学識アル者ナリ。論語巻ノ二ヲ出シ余ニ示ス。問フテ曰ク、君ハ之レヲ修メタルヤ否ヤ。答エテ曰ク、修メタリト。於是筆ヲ以テ彼ノ姓名ヲ問フ。姜士采ト云フ、…(略)…

 

と記す。義塾師姜士采は、向野堅一を怪しんだと思う。そこで『論語』巻ノ二を出して探りを入れる。向野堅一は、自信を持って「修メタリ」と(中国語で)答えている。待ってました、と言わんばかりである。「巻ノ二」は「八佾」「里仁」、姜士采は、これをつかって、どのように試したのだろうか。また堅一はどのように応答したのだろうか。そこのところはわからない。ただ議論は白熱し、論語から『詩経』等へも及んだらしい。側でその議論の様子を感銘深くうかがっていたのが孫の姜恒甲であり、後に「養子」として、日本へと渡ることとなる。姜士采も十分に満足し、向野堅一に孫を託すこととしたのである。
   〔3〕
 さて、向野堅一の『論語』の学びはどのようなものであったろうか。新入[しんにゅう](現直方[のおがた]市)の秦塾(明善義塾)において秦巌から学んだものであることは明らかである。それでは、秦塾・秦巌の『論語』理解はどのようなものであったろうか。ここに紹介する「向野文庫架蔵『四書正解 論語』箋註」こそが、秦塾・秦巌の『論語』理解の一端を示すものと推測するのである。
 秦巌は小倉藩に連なる人物で、幕末の騒乱の中、小倉藩藩校の蔵書の一部を大八車に積んで避難したとされている。この蔵書を核として、秦家・青柳家・向野家などの蔵書を併せて、現在に至っているものが向野文庫なのである。
   〔4〕
 残念ながら、今は、この箋註の作者を秦巌と確定する段階には無い。筆跡など、多角的な検討を要すと考えている。また私は、経書に通じていない。したがって内容面から詰めていくことも難しい。ともかく何らかの形で、存在を明確にしておこうとしたのがこの影印である。
                            (2020.12.14.向野正弘)