西村金瓶子『句集 初明り』における子ども達の回想する直方

 句集を整理していると、一冊の句集が目にとまった。西村金瓶子(きんぺいし)『句集 初明り』(東京都千代田区、白凰社、1986.3)である。句集の他、上林昭夫「西村金瓶子氏を偲ぶ」「随筆」「思い出」「著者略歴」西村三穂子「あとがき」よりなる。
 拝見して、少し感じるところがあった。概要を記すと、西村金瓶子(金平、1892.10-1984.4)氏は、安田銀行から十七銀行に移籍。昭和6年(1931)10月~昭和9年(1934)7月まで直方支店長。その後安田銀行へ復帰、東京へ帰る。向野堅一は、昭和6年(1931)9月17日に没し、翌9月18日に満州事変が勃発する。安田は、満州においても種々画策していたことを考えると「何かありそうだ」ということである。残念ながら、この線はここまで。後の課題としておき、ここでは、子供達の回想する直方を紹介しよう。
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 まず長女の西村三穂子「あとがき」は次のように述べる。

…(略)…昭和二年、三宅清三郎氏等と共に九州福岡の安田銀行の関係銀行であった十七銀行(現福岡銀行)へ移籍となりました。当時福岡には河野静雲、清原拐堂等ホトトギスの同人が居られ、銀行も本支店共に俳句会が盛んでございました。又近くには久保より江、竹下しづの女、杉田久女等のホトトギス女流俳人が居られ、時にご一緒に句会を催す事もありました。/福岡―唐津―直方と転任しました。当時炭鉱の黄金時代は過ぎておりましたが、直方は炭鉱都市として栄えた商業地であり、銀行業務も多忙でありながら、傍ら若い方々と熱心に句作を楽しんだ頃でした。遠賀川の流れ、福知山の眺めは四季を通じ句作のよい材料であった様です。(pp.178-179)

 ここで当時の直方を「炭鉱の黄金時代は過ぎておりました」としつつ「炭鉱都市として栄えた商業地」と位置付けている。したがって銀行業は多忙であったとしている。俳句については、まず十七銀行(現福岡銀行)において、盛んに俳句会が行われていたことは注目すべきであろう。そして当時の直方において「若い方々と熱心に句作を楽しんだ」としている。こうした俳句を通したコミュニケーションが円滑な人間関係の基礎にあることを注目すべきと思う。なお俳人中に見える河野静雲氏は、直方の俳壇でも重要な位置を占めている方である。
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 ついで弟の西村純「父の思い出」は、次のように述べる。

やがて父の転勤で私達は福岡県の直方市に移る。私はここで小学校一年に入学している。この時代の父は子供心にもさっそうとしていた。急ぎの用があると直方市に二、三台しかないタクシーに乗ってかけつけてくる。宿題の出来が悪いと云っては時々叱る父でもあった。おそらく父の一生で一番充実していた時期であったと思われる。家の裏側の広場の向こうに遠賀川の鉄橋があり、汽車が黒煙をはいてゴトゴトと渡って行く音が聞こえた。広場には大人が入れるような大きな酒樽がいくつも干してあって、夏の夜この樽の底をポンポンとたたく音がものうげに聞こえてきたりした。/昭和九年になると、父は安田銀行の本店に呼びもどされた。直方市の駅には見送りの人が一杯であった。数名の方は下関迄わかれを惜しんでついてきて下さった。この中の何人かの方とは、父は亡くなるまで文通をかわして昔をなつかしんでいた。(pp.169-170)

 前掲の姉の視点より幼い、小学校低学年の視線から見ての父と直方。このころから、人力車からしだいにタクシーへと移っていくのであろう。また家の場所もある程度特定できそうな描写や当時の情景も具体的である。本店への転勤の際の見送りは、俳句などを通した人間的な交流の帰結であったとみることができよう。
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 西村金瓶子の句中「桜餅 昭和七年」31句は、直方時代のもので、今日失われた時代を反映した描写もあり、興味深く感じる。残念ながら力不足であり、検討を加えていつの日にか紹介できればと考える。
                                                                                                      (2020.5.21 向野正弘)